心理学者のエイプリル・ベンソンによると、「米国には現在1,500万人の買い物中毒者が存在する」という。彼女は、「I shop therefore I am」という本を出版し、セントラル・パーク・ウエストにあるオフィスでショッピング・アディクト達をカウンセリングしている。
買い物依存症はどうしたら治せるのか―。彼女は、店で気に入った商品はいったん棚に戻し、最低1週間(できれば1カ月)して、「それでも必要だと思ったら店へ行けばよい」という。あまり効果的とも思えないが、心理学者のアドバイスとはこのようなものであり、万人に利くものではない。
買い物依存症ではないが、私も、ニューヨークでファミリー・セラピストのカウンセリングを暫く受けたことがあるから分かっている。心の病というものは、自分自身で治すしかないということを。
セラピストは、クライアントの「それ」をすべて受け容れて、本人の治癒力を導き出す手助けをするに過ぎないのだ。いまの私にとっては、時計ばかりを気にするロイヤーのようなセラピストより、河合隼雄氏の本を読む方がよっぽど役に立っている。(彼の病状はいかがだろうか?)
さて、「我買う、故に我あり」だ。
これはたしか、デカルトが「方法序説」の中で提唱した有名な命題『我思う、ゆえに我あり』のパロディであろう。人生なんて、買物の連続だと言えなくも無い。働いてお金を稼ぎ、そのお金を何らかのモノと交換する。頭を使い、汗を流した代償として、それに費やした時間の心や身体の隙間をそのモノで埋めていく…。
そこで広告を生業としている私は、ホイットニー・ミュージアムの「バーバラ・クルーガー回顧展」を思い出した。あれはたしか7年前の秋だった。
彼女はまさしく、広告をアートにした立役者だと私は思っている。モノクローム写真に赤い文字のドキッとするようなキャッチ・コピー。イタリアン・ボールドのフォントを使った定番のスタイルは様々なところで模倣され、マンハッタンの街にみごとに溶け込んでいた。
彼女はアートの本質を「人々に何かを伝えること」と捉え、戦略の最適手段として広告のデザインを模したスタイルを取り入れたのだ。
そしてクルーガーは、広告の有効性を活用しながら、そのネガティブな部分として集団への洗脳性も充分に理解しているからこそ、アートとして昇華させることができたのだろう。
今の日本の広告を見ていると、広告の役目すら果たしていないものが氾濫している。けっ、何が「検索
!」だ。笑わせてくれるよまったく。