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借り物の言葉

kramerkramer.jpgなにせ「イケメン」を知らなかったし、「クレーマー」という言葉にも戸惑った。

日本に帰る度に、新鮮なニホンゴに出会うわけだが、巷で氾濫している「クレーム」の使い方にはどうしても違和感を覚える。

日本の顧客サービスが、フェアなシステムとして機能していないのは、この「クレーム」という言葉がきちんと定義されていないことが原因ではないかと私は思っている。

借り物の言葉を使い続けている以上、コトの本質を理解することはできない。かくして日本のテレ・マーケティングは米国より10年以上遅れているのである。

本来、オリジナルの「claim」は、例えば理解しあえない他人と情報を共有するための重要なコミュニケーション手段である。米国でこの権利を主張することは、利害や見解の不一致を明らかにするための普通の行動である。

いっぽう、日本においての「クレーム」は、理解しあえているはずの他人との関係を脅かす「危ない主張」と取られてしまうようだ。権利を主張することが、悪意とか善意という感情的な問題にすり替えられてしまう傾向が日本にはある。

使われる環境が「交渉決定型社会」の米国であれば問題ないにもかかわらず、「村社会」の日本では問題として捉えられてしまうのが「claim」(クレーム)という言葉なのだ。

そういえば、「KY」(空気が読めない)という日本版アクロニム*が安倍ちゃんに対して使われているようだ。(彼は空気が読めないのではなく、国民の声を聴く耳を持っていない)

「空気を読むこと」は村社会で生きる日本人に必要とされている処世術なのかも知れない。学校で、家庭で、会社で、わざわざ誰かが「クレーム」しなくても(されなくても)、周りの空気で判断しなければならないということなのだろう。

コミュニケーションを深める必要性が増している現代社会、日本は未だに本音でものが言えない社会なのか? かつての『もの言えば、唇寒し秋の風』というように、なるべく相手に迷惑をかけないようにあらかじめ気をまわす細やかな社会であれば、クレーム(要求)しなくてもコトは自然と進んでいたのかもしれない。

しかし、グローバル化社会の波により、日本は村社会ではいられなくなった。俗に言われる『欧米化っ!』である。

合理的で効果的なコミュニケーションを行おうとすれば、この手の日本的美徳は通用しないし、フェアネスをベースにした概念では空気を読む必要はないのだ。

そのプロセス弊害なのか、「モンスター・ペアレント」なんていう聴きなれないニホンゴもでてきた。
消費者あるいは市民としての権利を主張できることに気がついた保護者のことだろうけれど、学校側と保護者双方のあいだで「クレーム」(claim)と「コンプレイン」(complain)が正しく使い分けられているかどうかが重要な点である。要求と苦情をごっちゃにしてはならないし、権利を主張するには義務も生ずる。

学校側にも堂々とクレームを受け付けるフェアな概念がないから混乱が起こっているのではないだろうか。この問題は学校だけに留まらず、企業全体にも当てはまる。それこそ空気のように漂っている文化的な問題である。

私はどちらかといえば場の空気を読むのは苦手だった。というか、人の顔色を伺うのが好きではない。しかし、1990年。「日本の不穏な空気」を読んでニューヨークに移り住んだ自分の嗅覚は正しかったと思っている。

あれから17年。
困ったことに日本の空気が全く読めず、日本の民主主義というものをすっかり勘違いしてしまっている。17年間、日本はなにも変わっていなかったのだ。

*アクロニム
「IBM」は、International Business Machineのアクロニムであり、
I Blame Microsoft(マイクロソフトが憎い)というパロディも生まれている。

by clairvoyant1000 | 2007-08-26 02:55 | 8)文化とcalture


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