脱線事故とサマータイム

たしかにこれまで何度も懸案事項として浮かんでは消えてきた。そして電力の需要と供給のバランスを鑑みて「この時期だからこそ実現させよう」と再び政府が動いているようだが、省エネルギーが目的ならやめた方がいい。

米国では「日の長い期間に、時計を1時間進めて昼の時間を有効に使おう」という趣旨でデイライト・セービング・タイム(Daylight Saving Time=DST)と呼んでいる。日本でこの制度の概念が理解されないのは、サマータイム(夏時間)などという呼び方に問題があるようだ。



福知山線脱線事故では、JR西日本前社長が業務上過失致死傷罪に問われているようだけれど、私に言わせればあの事故の原因は「日本社会を取り巻く風潮」によるものだと思っている。つまり眼に見えない同調圧力だ。「空気」と言ってもいいかも知れない。そして、本質的な議論を差し置いて、誰かをスケープゴートにしなければ気がすまない日本社会に恐ろしさを感じる。

電車にかぎらず、バスでも地下鉄でも時刻表どおりに運行するものではなく『遅れても仕方ない』と利用者が思えるような寛容な社会にならなければDSTを導入しても意味が無い。(飛行機なら遅れてもしょうがないと思えるのに)

「デイライト・セービング・タイム」を日本風に置き換えれば、『夕焼けを眺めるゆとりを持とう』ということ。成長期から成熟期に入った日本において、時計を気にしながらガムシャラに働く時代はとうに終わっているのだから。

私とは全く違う意見として、こんなコラムを見つけた。
サマータイム制は論外=東京大学教授・坂村健

彼は、サマータイムの本来の趣旨が理解できていない証拠に、以下のように言っている。

サマータイムは特にそうだが、なぜか他のことでは信頼できる人が変にハマっていたりする。欧米留学時の夏の日へのノスタルジーなのか、一回言い出して引けなくなったのか-。

要するに、理解不能だから彼の脳が拒絶しているに過ぎない。自分でも分からずに何故かヒステリックに過剰反応してしまうのは、その人自身の脳によるものだ。

なにより時計をいじるというのは意図的に「コンピューター2000年問題」を引き起こすようなもの。

時間というものに神経質になるあまり、時計をいじることへの恐怖や違和感を覚えるのだろう。なかには、時計の針を進めることで原子炉システムの誤作動などの面倒が起こりかねないとか東証のコンピューターが誤作動して株価が暴落するのではないかといった滑稽な意見もあって呆れてしまう。こういう日本人は多いようだが、それでは米国でDSTのシーズンになってどれほどの混乱や問題が起こっているというのだろうか?

たしかに腕時計と駅のホームの時計が1時間ずれていたりする。デートに1時間遅刻して彼女にフラれたりもするだろう。大事な会議に遅れて会社をクビになるかも知れない。コンピューターの時計もDSTに対応していない場合もある。でも、『それらはたいした問題ではない』とほとんどの米国人が思っている。

意図的に時間のギャップをつくるDSTは、時間というものに神経質すぎる日本人には理解できないかも知れないが、新しい発見をしたり「人生ってすばらしい」と思える瞬間を体験できる。

それは理屈ではないのだ。

時計はそれぞれ違う時間を指しているかもしれないけれど、DSTが始まれば「4月の第1日曜日の午前2時から10月の最終日曜日の午前2時まで時計が1時間早まる」というルールにしたがって時が進むだけで、それに雁字搦めに縛られるわけではない。

ただそれだけのこと。

このような寛容さを日本社会がもたなければ、そして、電車が1分遅れたくらいで舌打ちをするような人が減らなければ「時間に追われる事故」はまた起こるかも知れないし、我々は被害者にも加害者にもなりえるということだ。

大人になるにしたがいおかしくなってしまった「時間に対しての観念」を素直な子どもの頃のように戻すために、モモ (作:ミヒャエル・エンデ)を読むことを薦める。
#133:ギャップ・イヤーという概念
#025:サマータイムって?

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# by clairvoyant1000 | 2011-05-06 08:03 | 8)文化とcalture

10年遅れのパラダイム・シフト

「3-11」が、日本におけるメディアの*パラダイムに大きな影響を与えていることに気付いている人はどれだけいるだろうか?

おそらく、このカオスな状態が収まり(収まれば良いが)、小康状態になった頃(いつになる?)に自然と知れ渡ることだろう。


それは、日本人のメディア・リテラシーが「3-11」を境に間違いなく高まっているということだ。その証拠に大方のCGMユーザーにとって、ブログやツイッターが「日記のようなもの」ではなくなり「自分たちのメディア」として認識されはじめた筈である。

私はニューヨークで「9-11」を体験し、同時にブログが爆発的に普及した経緯を目の当たりにした。そう、ブログが世界的に広まったキッカケは「9-11」なのだ。

2001年、同時多発テロの発生直後、ニュース系のウェッブ・サイトにはアクセスが殺到し、ほとんど接続できない状況が続いて役に立たなかった。それを補うように、現場の状況と共に個人が撮影した写真や映像がブログに公開され、どこのウェッブ・サイトに行けば有用な情報を得られるかがやり取りされ、マス・メディアの情報源としても大きな威力を発揮した。

しかし、ブログが爆発的に普及したのはなにもオルタナティブ・メディアの役割を担ったことだけが理由ではない。人間の本能として、自分のやりきれない心境を公開することで癒されたり、その気持ちをほかの人と共有したいという思いが繋がってブログをここまで育て上げたのだと私は思っている。玉石混淆ではあるけれど、様々な人の意見を知ることで新たな発見もある。

いまから5年前。私は、ブログが日記として認識されている日本に「平和な国民性や世相を反映しているなあ」と皮肉を込めてブログに書いた。

徴兵制度も地域紛争もない、テロリストの標的にすらならない平和な国、日本。その代わりでも無いのだろうけれど、大地震が起こる。大津波が来る。沿岸には「国策」で進めてきたげんしりょくはつでんしょという厄介な荷物がある。そしていま、残念ながら平和とはいえない日本で(だからこそ)メディアはパラダイム・シフトを遂げ、60年代に大宅宗一氏が予言した「TVによる一億総白痴化」も終焉を迎えつつある。

今回の出来事で「ゲンパツ」の情報を取り上げる際のマス・メディアのスタンスというものを(平和を謳歌していた)誰もが気付いたはず。

この期を境に、バイアスのかかった御用報道を鵜呑みにすることをやめ、自分の感性を信じて情報を取捨選択して自らも情報を発信するような人が増えてくることだろう。そうなれば日本は、もっとましな表現の自由な国になるだろうし、今回の大災害も意味があるのではないかと私は思っている。

#100:書くゆえに我あり
#120:たわけ率

*パラダイム(paradigm):ある一時代の人々のモノの見方/考え方を根本的に規定している概念的枠組み。

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# by clairvoyant1000 | 2011-04-19 12:40 | 2)媒体とmedia

国民国家と民族の誕生:宮脇淳子/武田邦彦



いやー面白い。
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# by clairvoyant1000 | 2011-03-27 09:29