カテゴリ:8)文化とcalture( 88 )

think different

日本人は「日本と米国は違う」ということは分かっていても、「同じではない」とは認識していないのではないかと思う。つまり、何かを見たり聞いたり感じたりする場合、日本人は物事を日本人全体としての常識で判断するから、米国での出来事もそれに当てはめてしまいがちである。

しかし、往々にして思い過ごしや勘違いをしている場合もあるはずだ。(それを私はパーセプション・ギャップと呼んでいる)

米国人にとってのcommonsense(常識)は、「ひとり一人が違うもの」という認識があるから、米国人全体の常識、まして暗黙の了解などというものは無いに等しい。だから『ジョーシキで考えれば分かるだろう』などと米国人に言っても通用しない。それは、日本人の常識でものを言っているに過ぎないからだ。「日本の常識は世界の非常識」というのは、こういう意味なのだと私は解釈している。

ひとつの例として交通ルールがある。マンハッタンを走るイエローキャブの機転の利くドライバーは、右折する際には一番左車線から、左折するなら一番右車線から大回りする。(私もそうする)

ルール違反ではあるが、マンハッタンで急ぐときにはこの方法に限る。交通ルールという「常識」を律儀に守っていてはいつまで経っても割り込まれてばかりで、客からたちまちブーイングが起こってしまう。

混沌としたマンハッタンの街を運転してみれば分かるが、滅茶苦茶なようでいて統制が取れており、大きな事故も起こらない。必要最低限のルールさえ守っていれば、あとは臨機応変に対応してこそ車もスムースに流れるというもの。違反チケットは容赦なく切られるが、それは自己責任ということ。

さて、HSBC銀行のブランド・キャンペーンユア・ポイント・オブ・ビューはとても興味深い。ふたつの写真を交互に並べて、視点を変えれば反対の意味にも捉えることができるというもの。「人はそれぞれに異なる見方を持つ」との考えにもとづき、多くの人々の意見を歓迎する企業であることをアピールしているのだ。

物の見方や価値観の相違をつねに考えるということは、スティーブ・ジョブズの遺言「think different」にも通じるものだと思う。
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by clairvoyant1000 | 2011-10-29 08:00 | 8)文化とcalture

脱線事故とサマータイム

たしかにこれまで何度も懸案事項として浮かんでは消えてきた。そして電力の需要と供給のバランスを鑑みて「この時期だからこそ実現させよう」と再び政府が動いているようだが、省エネルギーが目的ならやめた方がいい。

米国では「日の長い期間に、時計を1時間進めて昼の時間を有効に使おう」という趣旨でデイライト・セービング・タイム(Daylight Saving Time=DST)と呼んでいる。日本でこの制度の概念が理解されないのは、サマータイム(夏時間)などという呼び方に問題があるようだ。



福知山線脱線事故では、JR西日本前社長が業務上過失致死傷罪に問われているようだけれど、私に言わせればあの事故の原因は「日本社会を取り巻く風潮」によるものだと思っている。つまり眼に見えない同調圧力だ。「空気」と言ってもいいかも知れない。そして、本質的な議論を差し置いて、誰かをスケープゴートにしなければ気がすまない日本社会に恐ろしさを感じる。

電車にかぎらず、バスでも地下鉄でも時刻表どおりに運行するものではなく『遅れても仕方ない』と利用者が思えるような寛容な社会にならなければDSTを導入しても意味が無い。(飛行機なら遅れてもしょうがないと思えるのに)

「デイライト・セービング・タイム」を日本風に置き換えれば、『夕焼けを眺めるゆとりを持とう』ということ。成長期から成熟期に入った日本において、時計を気にしながらガムシャラに働く時代はとうに終わっているのだから。

私とは全く違う意見として、こんなコラムを見つけた。
サマータイム制は論外=東京大学教授・坂村健

彼は、サマータイムの本来の趣旨が理解できていない証拠に、以下のように言っている。

サマータイムは特にそうだが、なぜか他のことでは信頼できる人が変にハマっていたりする。欧米留学時の夏の日へのノスタルジーなのか、一回言い出して引けなくなったのか-。

要するに、理解不能だから彼の脳が拒絶しているに過ぎない。自分でも分からずに何故かヒステリックに過剰反応してしまうのは、その人自身の脳によるものだ。

なにより時計をいじるというのは意図的に「コンピューター2000年問題」を引き起こすようなもの。

時間というものに神経質になるあまり、時計をいじることへの恐怖や違和感を覚えるのだろう。なかには、時計の針を進めることで原子炉システムの誤作動などの面倒が起こりかねないとか東証のコンピューターが誤作動して株価が暴落するのではないかといった滑稽な意見もあって呆れてしまう。こういう日本人は多いようだが、それでは米国でDSTのシーズンになってどれほどの混乱や問題が起こっているというのだろうか?

たしかに腕時計と駅のホームの時計が1時間ずれていたりする。デートに1時間遅刻して彼女にフラれたりもするだろう。大事な会議に遅れて会社をクビになるかも知れない。コンピューターの時計もDSTに対応していない場合もある。でも、『それらはたいした問題ではない』とほとんどの米国人が思っている。

意図的に時間のギャップをつくるDSTは、時間というものに神経質すぎる日本人には理解できないかも知れないが、新しい発見をしたり「人生ってすばらしい」と思える瞬間を体験できる。

それは理屈ではないのだ。

時計はそれぞれ違う時間を指しているかもしれないけれど、DSTが始まれば「4月の第1日曜日の午前2時から10月の最終日曜日の午前2時まで時計が1時間早まる」というルールにしたがって時が進むだけで、それに雁字搦めに縛られるわけではない。

ただそれだけのこと。

このような寛容さを日本社会がもたなければ、そして、電車が1分遅れたくらいで舌打ちをするような人が減らなければ「時間に追われる事故」はまた起こるかも知れないし、我々は被害者にも加害者にもなりえるということだ。

大人になるにしたがいおかしくなってしまった「時間に対しての観念」を素直な子どもの頃のように戻すために、モモ (作:ミヒャエル・エンデ)を読むことを薦める。
#133:ギャップ・イヤーという概念
#025:サマータイムって?

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by clairvoyant1000 | 2011-05-06 08:03 | 8)文化とcalture

「自由」ということ

a0003694_12243186.jpgオスロの市庁舎で行われたノーベル平和賞を記念する夕食会で、受賞者の劉暁波氏(民主活動家)が座るはずの席には、ぽつんと賞状が置かれその隣りの妻の席も空いていた。

彼は国家反逆罪で服役中であり、妻も軟禁状態になっているからだ。異例の平和賞授与の際、彼が過去に執筆した文章が代読され拍手喝さいを浴びたという。

いつか中国が、異なる価値観や考え方の共存できる表現の自由のある国になって欲しい。

ともすれば聞き流してしまいそうなシンプルな言葉に私はとても考えさせられた。ムンクの「叫び」(オスロ美術館所蔵)のように聞こえた。

はたして日本は、「異なる価値観や考え方の共存できる表現の自由のある国」だろうか?いやいや、中国のように自由を主張することで投獄されることはないけれど、日本が自由な国だなんて世界に向けて言えないはず。私が暮らしていた自由の国、米国のニューヨークに比べてはるかに「自由ということ」が軽んじられている。

この「自由」の意味が分からないひとは、今の日本の目に見えない「不自由」に気付いていないどころか、その不自由さに甘んじているとさえ思えるのだ。

我々は、国の法律に従い、あるいは社会の約束ごとに従って、あるいはグループやあるいは家族や、あるいは組織の中の常識に従って生きている。

しかし、それは無用の摩擦を避けるためにそうしているのであって、本当はなにも他と同じことをする必要はまったくないのだ。群れを離れて好き勝手なことをするとき、さまざまな形での制裁が加わってきたり、あるいは制限があったり、処罰を受けたりする。だから否応なしにそれに従っている。

私は、そういうことのなかで必要のない生きかた、つまり、そうしなければならない群れの中で生きていくうえでの最低のルールとして強制されているもの、そのもの以外の自由にしていい部分までもまわりと同じようにまわりの顔色をうかがいながら、じつはみんなと同じ人間として振舞わなければならない風潮が日本にはあると思っている。

それが「他人の眼」であり「空気を読むこと」であり、「無言の同調圧力」に繋がっている。

しかし、自主規制がある限度をすぎて、皆と同じにやっていれば安心だと、あるいは他の人たちから変な目で見られるからということで、やりたいこともやらず、思いきったこともできず、ただみんなと合わせて暮らしているとすれば、それがはたして「自分を生きている」といえるだろうか?

少々陰口をきかれたり、蔑みの目で見られたり、あるいは好奇心にさらされたりすることなどがあってもたいしたことではない。
人はみな自由なのだから。

みんなに気をつかうということは、この島国に住んでいる我々日本人の美徳なのかもしれない。しかし、そのために本当の大事なところを見失っているような気がしてならないのだ。

ところで以前、小泉シンジロウが「自由があるのがジミン党、自由のないのが民主党」と言っていた。短いセンテンスで面白おかしく表現するのは親父譲りといえるだろう。ここで使われる「自由」のように、日本での自由というのは、しょせん党名に付ける程度の「ジユウ」なのかも知れない。

北朝鮮の国名が「朝鮮民主主義人民共和国」であるのと同じように。

#093:「空気」に水を差す
#140:三人の日本人
安心と安全を繋げるな!

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by clairvoyant1000 | 2010-12-10 12:19 | 8)文化とcalture

空気に水を差せ


以前、空気に水を差すにも書いたけれど、一時的にせよ日本国中に蔓延する空気というものに違感を覚える。さしずめいまの空気は「小沢疑惑」といったところだろうか。

「検察が事情聴取を求めているから」とか、「TVでやっているから」「新聞に書いてあったから」といった程度でその報道を疑いもなく信じてしまう人が未だに多数を占める日本国民のメディア・リテラシーの低さは嘆かわしい。たとえ逮捕されたとしても、その人は犯罪者ではなく容疑者にすぎないにもかかわらず。

この空気は、おもに検察ファッショとそれに加担しているマス・メディアが作り上げたものであるが、ことの根源である「マス・メディアの問題点」に気が付いていない人でも、いまの空気に息苦しさを感じている人は少なからずいると思う。

a0003694_123297.jpgこのようなときには、蔓延している空気に水を差す。つまり、もしかしたら? という視点で、違った意見をたとえばニッチなメディアで自ら調べることで、新たな発見を得ることができる。

ほとんどの日本のマス・メディアのスタンスは、大衆に迎合し(空気を読んで)それを報道しているに過ぎないから、私にとっては価値のないものとして無視をしている。どうせマッチポンプよろしく、1週間もすれば次の獲物(ネタ)を追い求めることの繰り返しだからだ。

しかし、権力そのものである検察庁のリークを垂れ流すというのはあきらかにフェアではない。なぜなら、自分の頭で考えず空気を読むだけの大衆を一方向に煽動してしまう恐れがあるからだ。

それが空気の密度を更にいっそう濃くし(エスカレートさせ)、私を息苦しくさせている。


ニッチメディア例1:郷原信郎インタビュー
ニッチメディア例2:山崎行太郎ブログ
ニッチメディア例3:#117:日本人という病
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by clairvoyant1000 | 2010-01-16 12:28 | 8)文化とcalture

#139:選挙関連ビデオ

これらオバマ氏関連のビデオで、米国大統領選挙の一端や「スターの立ち振る舞い」を垣間見ることができるかもしれない。

ちなみに、ジャスティン・ティンバーレイクとジェシカ・ビールは現在交際中。だからイキもぴったり。サタデー・ナイト・ライブ(TV番組)で話題になったといわれるDick in a Boxの替え歌「Vote in a Box」も良くできている。(これがアドリブだとしたら素晴らしい!)









関連:#81:絵に描いた餅は要らない
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by clairvoyant1000 | 2008-10-29 20:30 | 8)文化とcalture

#138:大統領選挙に思う

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再来週のチューズデー*(11月4日)、第44代米国大統領に指名され、晴れのアクセプタンス・スピーチ(受託演説)を読むのは、オバマ氏となる公算が大きくなってきた。

私は兼ねてから民主党への政権交代を確信していたし、このブログでも言及してきた。

#136:通訳機は中国製? (9月26日)
#102:主役は要らない (1月4日)

さまざまな要因は評論家のこじつけに譲るとして、私は理屈抜きでブッシュ政権後に米国民は民主党の大統領を選択するという「風」を肌で感じていた。それは、リベラルな街ニューヨークで生活してきたからこそ言えることかもしれない。オバマ氏という素晴らしい候補を擁立できたのも民主党だからだろう。

41: George H. W. Bush 1989-1993(Republican Party)
42: William J. Clinton 1993-2001(Democratic Party)
43: George W. Bush 2001-2008(Republican Party)
44: Barack H. Obama ? 2008(Democratic Party)

ヒラリー・クリントンが大統領候補になれなかったのは、ブッシュ(父)、クリントン(夫)、ブッシュ(息子)ときて、またクリントン(妻)となるとどこかの国の王朝のようなことになってしまいかねないので、米国世論のバランス感覚がそれを許さなかったのだと思っている。

私が渡米した1990年は、ちょうど今のようなリセッションの時代で、五番街ですらGoing out of Businessの店が並んでいた。知り合いのフォトグラファーの妻(スェーデン人)には、『どうしてこんな時期にニューヨークに来たの?』と嫌味すら言われたものだ。

しかし、クリントン政権になってからというもの、米国経済の重点をIT・金融に移して長い好景気をもたらし、情報スーパーハイウェイ構想によって、IT産業による「ニューエコノミー」も押し進めた。もちろん空前の好景気の背景には、それまでの共和党(ブッシュ父)時代に行われた政策の効果が徐々に現れてきたことが大きかったとも言われている。

つまり、異なった政策を持った政党がフェアに政権交代を繰り返すことによってこそ政治を健全かつ効果的に営むことができるということを証明しているのだ。

時代は大きな時計の振り子のようなもの。
一方向だけに偏った安定など不自然である。
現状を守ろうとして変化を恐れるのは何もしないのと同じこと。
そろそろ日本国民も、時代の変化を認識し、
自ら政治を変えていくための一歩を踏み出す勇気を
持たなければならない時期にきているのではないだろうか。

チャールズ・ダーウィンも言っている。

生き残れる者は、
強い者でもなければ
知的な者でもない。
最も変化に適応できる者が
生き残るのだ。


注: *なぜ投票日は火曜日なのか?(ウィキぺディアより)
アメリカは建国以前から選挙で選ばれた者が政治を行ってきた。選挙は開拓時代から行われたが、キリスト教徒であった人々は日曜日を安息日として休み、家族と共に過ごした。翌日の月曜日を投票日とすると、広大な国土のアメリカでは投票所から遠くに住む人は前日の日曜日の一日をかけて馬車などで来なければならないが、これでは安息日とはならない。遠方の人も日曜日は休み、月曜日の一日をかけて投票所をめざし、火曜日なら投票が行える。こうして、伝統的にアメリカでは投票日は火曜日となっている。

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by clairvoyant1000 | 2008-10-25 20:46 | 8)文化とcalture

#137:その日暮しの手帖

出版社から郵送されてきた雑誌を封筒から取り出しながら、夏に受けた取材のことを思い出した。

a0003694_7434743.jpgこの島には、マスメディアからの取材が結構来るのだけれど、私個人への取材や撮影は断っていた。なにも勿体ぶっている訳ではなく、彼らの上澄みすくいの企画意図に応じる筋合いはないと思っているからだ。

しかし、瀬戸山氏(ドキュメンタリスト)の「世のなか食のなか」という企画は気に入ったし、写真取材くらいなら受けてもいいと思った。掲載は、あの名物編集長の故花森安治氏の雑誌「暮しの手帖」である。

さっそく最新号(36号)をめくってみると、どのページも丁寧にていねいに制作されている。巷に溢れている雑誌にありがちなポピュリズム的なるいやらしさが無い。なぜか?
それは、広告というノイズが一切無く、雑誌の隅々にいたるまで、コンセプトが一環しているからだ。

この雑誌が広告を載せないことに関しては、商品テストを特集する際、フェアに行うためと理解されているようだが、じつは違う。

ちょっと調べてみると、創刊当初から編集長の花森氏が自ら誌面のすべてに神経を配ったレイアウトを施しているので、広告によってそれを台無しにされたくないという理由が最初にあったそうだ。

広告収入に頼らず今年で60周年というロングセラーを続けているのは、花森氏の徹底した美意識がいまも健在だからである。

戦中/戦後と、広告の仕事に携わっていた彼が、後に広告を排除した雑誌を編集するという経緯はとても理解できる。おそらく、広告主と制作者とのフェアな関係を築きにくい日本の業界において、天才の居場所はなかったのだろう。

この雑誌のマニフェストである「見よぼくら一銭五厘の旗」は、戦後に書かれたにもかかわらず、私が常々考えていたことを語っている気がする。僭越ながら。
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by clairvoyant1000 | 2008-09-27 20:46 | 8)文化とcalture

#136:通訳機は中国製

『この機械は日本製じゃないな』
国連総会でアソウ氏が演説した際、通訳機がうまく作動しなかったときの映像だ。
このジョーク、もっと涼しい顔で言ったほうが効いたのではないか。

あるいは、『これはおそらく中国製だろうけれど、常任理事国ではない言葉も認識できる日本製を寄付したい』とかなんとか言って欲しかった。



彼の名前、英語圏では「ケツの穴」(アスホール­=アスォー)と聞こえかねないが、政権を譲る最後の総理大臣としての任期は短いのだから、この路線で存在感を発揮し、国民を楽しませて欲しい。小沢氏のようにジョークのひとつも言えない退屈な男よりはマシではないか?

しかし、いまの日本に必要なのは「政権交代」である。
11月には民主党のオバマ氏が大統領となるように、米国が民主主義の国たるゆえんは政権交代があるからに他ならない。

とはいえ、日本も民主党が政権を握ればそれでOKではない。官僚を入れ替え、国民も認識を新たに持って今までの「あらゆる腐れ縁」を断ち切ってこそ政権交代の意義がある。当分はカオスとなるだろうけれど、その先には明るい未来が待っているはずだ。

ところで、アソウ政権で幹事長となった細田氏(9月20日当時は幹事長代理)と円卓の食事を囲む機会があった。田舎のホテルの会合に3人もの記者が取材に来ていたのは、おそらく幹事長の生臭い話を収集するためだったのだろう。

会合では、約60人の島の出席者全員の意見や要望を聞くというので、そのなかで私は消費者行政について言わせて貰った。

『昨今、消費者行政の問題が露呈しているのは、ジミン党が消費者の視点で行政を行ってこなかった長年の歪がでてきたものと考える。消費者は有権者でもある。消費者行政とは名ばかりの「生産者行政」を抜本的に改める必要がある』と。

細田氏は『消費者庁を発足させることで対応していきたい』と型どおりのことしか言わなかったが、企業からの莫大な献金を受けているジミン党に言っても始まらないなあ...と、鳥のから揚げを頬張りながら思った。

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by clairvoyant1000 | 2008-09-26 20:48 | 8)文化とcalture

#133:ギャップ・イヤーという概念

brain.jpg「ギャップ・イヤー」という言葉を見つけたとき、私は思わず、これだ!と立ち上がった。

自分の書斎のように使っている公民館の図書室で、茂木健一郎氏の新著「感動する脳」をペラペラとめくっていたときだ。

ギャップ・イヤーとは、イギリスでは非常に普及している制度である。たとえば、高校から大学へ進学する間や学校を卒業してから就職する間、あるいは社会人になってからも、途中で「空白の年」をつくることを指す。

「就職して出世する」という退屈な目的のために人生のスケジュールをぎっしりと埋め尽くすのではなく、自分の意思であえて空白の期間をつくり、その間はたとえばボランティア活動をしたり、世界中を旅したりということに時間を使うのだ。もちろん「空白の時間」なのだから、そこに目的意識というものを持つ必要はない。

どこかの組織に属することは人生の選択肢のひとつにすぎない。組織に属さない生き方もあれば、時期によって属したり属さなかったりという生き方もあるはず。要するに、自分の人生を自由に選択するというごくあたりまえのことであり、欧米ではその自由さを社会全体で認めている。このような国こそ先進国といえるのだと私は思う。

ギャップ・イヤーを「浪人」や「フリーター」と解釈しても間違いではないのだけれど、日本社会ではどこかの組織に属していて一人前という考え方があるし、彼ら自身にもどこかに甘えというものがあるように思える。

社会のなかで特定の組織に属していないということは、ある種の不安が付きまとう。しかし、その空白の時間に耐えてきた者のほうが、目的もなくただ人生を送っている者よりも「ゆたかな人生」といえるのではないだろうか。要は、結果的に自分にとって有意義な時間を過ごしたと思えればよいと思う。

私がデイライト・セービング・タイム(サマータイム)に拘わるのも、ニューヨークで過ごした17年間のギャップ・イヤーによって、日本で常識と思われているであろう「時間への概念」に違和感を覚えるからである。

ギャップ・イヤーが日本で難しいのであれば、ギャップ・デイやギャップ・アワーならばできるかもしれない。それを個人的にやってみたらどうだろう。そのあいだだけ「いつも組織に帰属しているという考えを捨て、自由な意識をもつことで、普段では使わない脳が働く」と脳科学者の茂木は言っている。

日本でサマータイムを導入する意義は、このギャップ・アワーを疑似体験するきっかけになると私は思っているわけだ。

スケジュール表が予定ですべて埋まっていないと不安がるひとがいる。忙しいことこそが自分の存在価値だと思っているひとが「空白の時間」に不安に感じてしまうのは、脳の指示によるもののようだ。

安心感とはとても大切なものである。しかし、安心感ばかりに囲まれてそこに安住してしまったら、感動は薄れ「時間」というものを安心のためだけに費やしてしまいかねない。

人生にはいろんなオプションがある。
いまの状況(会社や仕事)にしがみつくだけではなく、『自分には人生を自由に生きられる選択肢がある』という気持ちを持ち続けることが大切なのだと思う。

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by clairvoyant1000 | 2008-08-31 22:56 | 8)文化とcalture

#127:時間のギャップ

「戦争と悪性インフレとサマータイムは経験しない人にはわからない」と小林信彦氏は言ったらしいが、たしかにそう思う。

彼はサマータイム(以下DST)に反対らしいけれど、私はDSTを米国で長年経験してきてどういうものか分かっているつもりだし、なかなか良い制度だと思っている。その理由は、いわゆる省エネルギーにつながる「環境対策」に効果があるという眉ツバ的なことでもなければ、余暇支出の拡大を通じた「景気浮揚効果」などという下世話なものでもない。

有体にいえば DST は、いまの日本人に「時間というものをあらためて考える機会」を与えてくれるものである。そしてそれは、お金に換算できないほど大きな意味を持つと思っている。

そもそもベンジャミン・フランクリンが提唱したデイライト・セービング・タイム。米国で1918年に導入された際には国民に不評を買い翌年に廃止されたが、第二次世界大戦中に復活して現在に至っている。当時の導入理由は資源節約が目的だったらしいが、副産物として「時間というものに柔軟に良い加減に付き合えるライフ・スタイル」が根付いたのは嬉しい誤算だったのではないか。

あの米国で不満の声が上がっていないということは、概ね好評ということにほかならない。そして、DSTを導入している約70カ国の国民は、みな当然のことと受け取って暮らしているのだ。

DSTへの反対派の意見を関連サイトでざっと読んでみたが、どこからか引っ張り出してきた情報の受け売りばかりで、DSTの本質を理解できている人はほとんどいない。そればかりか、過剰とも思える拒絶反応を示し、瑣末な意見を並べ立てている。

ヒステリックに反対する人の心理状態を大脳生理学的見地からみれば、「理解できないものや悪い噂に対して人間の脳の辺縁系が働いて直感的にそれを避けようとする」らしい。

経済市場主義に飼いならされてしまった人々は、いままでの会社中心型のライフ・スタイルから、たとえば家庭や地域を重視した新たなライフ・スタイルにシフトすることへの違和感や恐怖感もあるのだろう。

momo.jpg時間をケチケチすることで、本当はぜんぜんべつのなにかをケチケチしているということには誰ひとり気がついていないようでした。自分たちの生活が日ごとに貧しくなり、日ごとに画一的になり、日ごとに冷たくなっていることを誰ひとり認めようとはしませんでした。「モモ」より

2010年からの導入を目指していたサマータイム法案が今国会で見送りとなったのは、ポピュリズムに走る政府が民意を汲んだからかもしれない。

DSTの良さを実感したことがない人でも、ミヒャエル・エンデの モモ を読めば時間の概念がすこしは変わるはず。そして、『DSTもいいかも...』と思ってくれれば幸いである。

関連:#121:先進国とは?
関連:#114:ASAPの意味
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by clairvoyant1000 | 2008-07-16 08:26 | 8)文化とcalture