「ギャップ・イヤー」という言葉を見つけたとき、私は思わず、これだ!と立ち上がった。
自分の書斎のように使っている公民館の図書室で、茂木健一郎氏の新著「
感動する脳」をペラペラとめくっていたときだ。
ギャップ・イヤーとは、イギリスでは非常に普及している制度である。たとえば、高校から大学へ進学する間や学校を卒業してから就職する間、あるいは社会人になってからも、途中で「空白の年」をつくることを指す。
「就職して出世する」という退屈な目的のために人生のスケジュールをぎっしりと埋め尽くすのではなく、自分の意思であえて空白の期間をつくり、その間はたとえばボランティア活動をしたり、世界中を旅したりということに時間を使うのだ。もちろん「空白の時間」なのだから、そこに目的意識というものを持つ必要はない。
どこかの組織に属することは人生の選択肢のひとつにすぎない。組織に属さない生き方もあれば、時期によって属したり属さなかったりという生き方もあるはず。要するに、自分の人生を自由に選択するというごくあたりまえのことであり、欧米ではその自由さを社会全体で認めている。このような国こそ
先進国といえるのだと私は思う。
ギャップ・イヤーを「浪人」や「フリーター」と解釈しても間違いではないのだけれど、日本社会ではどこかの組織に属していて一人前という考え方があるし、彼ら自身にもどこかに甘えというものがあるように思える。
社会のなかで特定の組織に属していないということは、ある種の不安が付きまとう。しかし、その空白の時間に耐えてきた者のほうが、目的もなくただ人生を送っている者よりも「ゆたかな人生」といえるのではないだろうか。要は、結果的に自分にとって有意義な時間を過ごしたと思えればよいと思う。
私が
デイライト・セービング・タイム(サマータイム)に拘わるのも、ニューヨークで過ごした17年間のギャップ・イヤーによって、日本で常識と思われているであろう「時間への概念」に違和感を覚えるからである。
ギャップ・イヤーが日本で難しいのであれば、ギャップ・デイやギャップ・アワーならばできるかもしれない。それを個人的にやってみたらどうだろう。そのあいだだけ「いつも組織に帰属しているという考えを捨て、自由な意識をもつことで、普段では使わない脳が働く」と脳科学者の茂木は言っている。
日本でサマータイムを導入する意義は、このギャップ・アワーを疑似体験するきっかけになると私は思っているわけだ。
スケジュール表が予定ですべて埋まっていないと不安がるひとがいる。忙しいことこそが自分の存在価値だと思っているひとが「空白の時間」に不安に感じてしまうのは、脳の指示によるもののようだ。
安心感とはとても大切なものである。しかし、安心感ばかりに囲まれてそこに安住してしまったら、感動は薄れ「時間」というものを安心のためだけに費やしてしまいかねない。
人生にはいろんなオプションがある。
いまの状況(会社や仕事)にしがみつくだけではなく、『自分には人生を自由に生きられる選択肢がある』という気持ちを持ち続けることが大切なのだと思う。