河合隼雄氏のことば

8月17日に脳梗塞で倒れた河合隼雄氏(文化庁長官)の容体は余談をゆるさないようだ。「危険な状態は脱しつつあるが、いぜん意識は戻らず重篤な状態だ」と医師は説明している。
 
彼の臨床心理学者として書かれたたくさんの本は、「人のこころ」について学ぶところが多い。私は彼によってとても救われた気持ちになったが、おそらく私と同じ気持ちを持った人は多いはずだ。
  
とくに、妻や子供の宗教についての悩みを抱えている私は、彼のもつ一般的な宗教感にとても勇気づけられたものである。宗教の自由は認められなければならないが、それが原因で家族の不和に繋がるとすればとても不幸なことであり、やりきれない気持ちになる。妻はともかく、血をわけた子供はいつかきっと分かってもらえる日がくると信じている。そう信じられることが私にとっての救いである。
  
人間のこころとは、それほど簡単にわかったり「よい方法」によってうまく変えられたりするものではない。確かに、心から祈ることによって自分の願いが聞きとどけられたと思うときや、知人の死を「虫の知らせ」によって知ることができる事実があることを否定しない。しかし、そのようなことがあるからと言って、そこから単純な「理論」や「信心」を導き出すのは、まことに安易である。ましてや、そのようなことを種にしてお金を稼ごうとするのには、どうもついていけない。
 
人間はその存在そのものに不安を内在させている、と言えるだろう。誰にも避けることのできない「死」ということは、常にのしかかっている課題である。人間が恐れる「死」に対しても、それを少しでも遅らせる「良い方法」はないかと考え、昔だったら死んでいるはずの人をどれくらい「延命」できるか競争するような医学も発達した。
 
しかし、ここでわれわれは気づきはじめた。いったいそれはほんとうに「よい」方法なのか。「延命」はほんとうに幸福なのだろうかと。死と直面する方法に、良い方法や便利な方法があるのだろうか。宗教というのは、人間に内在する不安や、死の問題をどのように考えるか、ということを自分なりに見出そうと苦闘するところから生まれてくる。そこには、壮大な教義や戒律のシステムがある。それによって多くの人が救われてきたのも事実であるし、現代においてもある程度はそのとおりである。
 
しかし、宗教が教団を形成してくると、それは両刃の剣のようになる。教団によって守られ、信仰を同じくするものが集まって助け合うとともに、教団の組織の維持や内部の権力闘争にエネルギーを奪われ、本来的な宗教性が薄められる。その上、古い形態を守ろうとし過ぎるため、現代の課題に対応することが難しくなる。


便利で手軽な新しい宗教まがいのことが急増しているようだが、こころの時代を真剣に考えるのなら、そのような安易な道に逃避するのではなく、自分の「こころ」がほんとうのところ、どのように感じ、どのようにはたらいているか、をもっと正面から見据えることをするべきではなかろうか。
 
昏睡状態のなか、彼はいま何処をさまよっているのだろう。
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by clairvoyant1000 | 2006-09-09 14:33 | 8)文化とcalture


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